「出来ない」自覚は成長への道
「MK砲」
という言葉をご存知でしょうか。
「ああ、懐かしい。そんな時代もあったなあ。」
と感じる方、結構な年代の方ですね。
甲子園を沸かせた稀代の強打者によるコンビ
1996年のオフシーズンに当時西武ライオンズに所属していた清原和博選手が読売ジャイアンツに移籍してきた時に、前年に38本塁打、99打点の活躍をし、セントラルリーグMVPに輝いた松井秀喜選手とのコンビが実現する、という事で当時のメディアが松井選手のMと清原選手のKを取って命名したものです。
当時清原和博選手のFAについては長年の夢が叶ったという事と(ドラフト会議の時の桑田真澄選手との因縁、巨人との因縁等はあまりにも有名でした。)、桑田選手とのPL学園時代以来のKKコンビ結成。
そして何より同じく甲子園を沸かせたスラッガーである松井秀喜選手とのコンビ結成、という話題でどこのスポーツニュースもこの話題で持ちきりでした。
僕自身このコンビには期待する所も大きく、清原選手の西武時代の成績が入団5年目の1990年をピークに下降気味になっていっていた事に対する不安が少しありましたが、当時4年目であった松井秀喜選手がたまに「今のポジションのセンターから高校時代のサードに戻りたい。」という主旨の発言をしていたので、もし実現すれば
「ファーストで3番か4番の清原、サードで3番か4番の松井」
とまさに昭和の長嶋茂雄さんと王貞治さんのONコンビの再来ではないか、とわくわくしていました。
また清原選手の成績の低下は本人云々というより西武時代の秋山幸二選手やオレステス・デストラーデ選手といった強打者に囲まれてマークが分散することが秋山選手のトレード等でなくなっていったせいかも、と考えており、松井選手と組むことでまた復活するのでは、という僕の考え方もありました。
コンビとしての結果は残念ながら期待通りとはいいがたく、年々成長を遂げ、50本塁打を置き土産にメジャーリーグのヤンキースに移籍、ワールドシリーズでMVPを獲得し、引退後もヤンキーズ、読売ジャイアンツで指導者としての争奪戦が展開される松井選手と、引退後薬物所持、使用により逮捕されてしまう清原選手という好対照な道のりを歩んでいきます。
この2人、いずれも高校時代から怪物として恐れられ、プロ野球ファンのみならず世間一般でも抜群の知名度を誇っていましたが、僕はこの2人にはプロ入りしてからの歩みが大きく違う、と感じる事があり、その違いこそがこの2人のその後の人生を大きく左右する一因になったのではないか、と考えています。
早熟の天才、清原
高校一年生の頃から名門PL学園の4番として活躍。
ドラフトでは6球団から指名を受け、西武ライオンズに入団。
高卒一年目からレギュラーに定着。
シーズン終盤には4番打者を任され打率.304、ホームラン31本で文句なしの新人王。
18歳にしては考えられない数字です。
5年目には.307、ホームラン37本、打点94で打点以外はほぼキャリアハイの成績を残します。
(余談ですがこの年はこの成績でチームが優勝したにもかかわらずMVPを獲得出来ませんでした。
近鉄バッファローズから後にロサンゼルス・ドジャーズに移籍した野茂英雄投手の衝撃的なデビューイヤーでした。)
成績を見るとプロ入りした時点でほぼほぼキャリアハイに近い数字を残していました。
僕はこれが清原選手の致命傷になったと思います。
高校生がいきなりプロの大舞台で最高の成績を残してしまう。
高校時代からの圧倒的な人気、西武ライオンズオーナーである堤義明氏の寵愛(を受けていたといわれている)も相まって誰もが何も言えません。
これが彼の慢心を招いたのではないか、と考えています。
ただ落合博満さんは当時から
「清原は高校3年生からプロ2年目までは王貞治さんの記録を抜くのは彼しかいないと思っていた。ところがここ数年スイングが悪くなっている。」とその当時から指摘をしていました。
これは僕も昔何かのプロ野球選手の出演する歌番組で実際に話していたのを覚えています。
清原選手も後日(僕の記憶ですが)
「キャリアハイの成績を残した時の自主トレはハワイに行って当時の彼女とゴルフばかりやっていた。」
と言っていました。
ルーキーがいきなりプロの中で№1になってしまう。
その中で周囲がどんどん擦り寄ってきて、自分に対して厳しい意見を言ってくれる人がいなくなる。
これこそが彼の一番の悲劇であったと僕は思います。
不器用な松井
一方松井選手。
ジャイアンツから一位指名を受け、外野のレギュラーに定着したものの、
・1年目…打率.223、11本塁打
・2年目…打率.294、20本塁打
・3年目…打率.283、22本塁打
という成績です。
2年目、3年目は全試合出場しレギュラーに定着したものの、事前の期待値とはかけ離れた数字でした。
ここで危機感を感じた松井選手は3年目のシーズンが終了すると、オフの間も自費でバッティングピッチャーを雇い、苦手な内角球を徹底的に練習したとの事です。
この成果が翌年の打率.314、38本塁打、99打点という素晴らしい数字になり、この年MVPに輝きます。
その後のシーズンではホームランも34本を割り込むことなく、最終年には遂に50本の大台に乗せ、日本シリーズ優勝を置き土産にニューヨークヤンキースに移籍していきます。
僕自身彼の飛躍の年となった3年目の1995年のシーズンオフから4年目の1996年のシーズンの変化、その活躍はリアルタイムではっきりと覚えていますし、その成長ぶりに心を踊らされたものです。
(この辺りは彼の著書である「エクストライニング」にも書かれています。)
「出来ない」事への自覚が改善への行動を促し、それが成長への糧となる
彼は自分が「出来ない」という自覚がはっきりありました。
「このままでは終わる。」ともはっきり自覚していました。
だから必死に努力したんだと思います。
長嶋茂雄さんとの素振りは有名なエピソードですが、当時のジャイアンツでは武上四郎バッティングコーチの元、松井選手や高橋由伸選手は試合終了後も深夜遅くまで試合で崩れかけたバッティングフォームの修正の素振りをしていたとの事。
その時に清原選手は参加しなかったという報道も見た事があります。
(夜遊び云々というよりそこまでやりきる体力がすでになかったとも…。)
「出来ない」という事、「出来ない事を認める」という事は決して恥ずかしいことではありません。
「出来ない」状態を放置しておくのではなくそれを努力によって「出来る状態に」まで持っていく事。
その事が大事なんだと思います。
よくスポーツ選手に対し「天才」という表現を使われますが、僕は松井選手については
「圧倒的なパワーで遠くに飛ばすという天賦の才を凄まじい努力の量で開花させた選手。」
と認識しています。
報道で清原選手、松井選手のニュースを目にするたびに2人の現役時代の圧倒的に周囲を魅了する姿を思い出すと同時にこんなことを感じます。
「最初から『出来ない』事は恥ずかしいことじゃない。」
「出来ない事を認めてこそ「出来る」に繋がる。」